「播州一献」蔵人日誌・まえがき《ライターが火災蔵の蔵人になるまで》
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ようやく筆をとろうと思う。
書こうとすると記憶や想いが次々と溢れて混沌とし、うまく言葉にならなかった。だけど逃げ続けているわけにもいかない。書かない想いはいつか無かったものになる。書けるのはわたししかいないのだから、あの日々のように。
2018年11月9日から2か月間、兵庫県で「播州一献」という酒をつくる山陽盃酒造で蔵人(くらびと)をしていた。
北海道地震を経験して「人生いつどうなるかわからないものだ。」と悟り(長くなるのでここでは割愛)、「自分は現地に溶け込んで、どんどん現場の想いを代弁するライターであるのだ。」「それなら、どこかの酒蔵に世話になり酒づくりを勉強しよう。」と心に決めた。2,3日の短期で酒づくりなど語れるものか。どうせなら数か月、なんなら1シーズンこもりたい――そうだ、それがいい。まだ抱いたばかりのホカホカの自分だけの決定事項を胸に、たまたま行った先が今回の酒造だった。地震直後の混乱を極めている北海道からまっすぐ宍粟市へ。そして酒蔵近くの一軒の日本酒BARで、壺阪杜氏と飲みながら「酒づくりがしたいです!」「うちに来ればええやん。」「ぜひ!」というこれだけの会話で、わたしは住む場所の確保と時給額以外のなにも聞かずに「よろしくお願いします!」と酒蔵に住み込みで働くことを決心した。
酒蔵(あるいは杜氏)の考え方と計画、あとは取り入れている機械によって始業時間などは大幅に変わる。朝6時から始める酒蔵もあれば、8時というところもあり、泊まりの作業があるところと無いところ…まちまちだ。そんなことくらい知識として知ってはいたのだけど、辛いか楽かなんて想像する必要もなかった。なぜならわたしは“辛い思い”をしに行くのだから。楽な仕事なんてこの世にはないが、そのなかでも未だかつて経験したことのない男所帯の肉体労働。女性、それも昼夜逆転生活で運動不足のライターであるわたしにとって楽であるはずはない。ならばどれだけ酒づくりが大変なのか「自分の身体で感じよう」。酒のためのいわば人体実験に、わが身を捧げたのだ。
こうして思わぬ形ですんなりと、受け入れてくれる酒蔵が決まった。次にすべきことは仕事の整理だ。記事はどこにいても書くことができる。しかし当時、女将としてカウンターに立たせてもらっている飲食店が2軒あった。唐突ではあるが行くまでにまだ2か月あるので、店のかたとお客様とに報告をして、10月に「良いお年を」なんて冗談とお礼を伝えながら、荷物をまとめて着々と約束の11月11日を迎えようとしていた。
そんな矢先の11月8日午前10時30分ごろ、山陽盃酒造から出火した。ここからわたしの蔵人生活がはじまる。誰も予測し得なかった、壮絶な日々のスタートだ。
<つづく>