「播州一献」蔵人日誌1《ネット誤報の先を行け!戦場カメラマンの誕生》
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前回:「播州一献」蔵人日誌・まえがき《ライターが火災蔵の蔵人になるまで》
ネットニュースを見れば、炎と白煙高く上がっている衝撃的な写真、やがて上空にヘリコプターが旋回し、焼き尽くされていく動画がアップされていく。大好きな「播州一献」をつくる酒蔵が、今この瞬間に燃えている。
何も考えることができず、すかさず壺阪専務に電話をかけると彼は、開口一番「いやぁ…」と呆然と声を漏らした。いや、声が勝手に漏れたようでもあった。目の前ではまだ延焼が続いているという。しばし会話をして、電話を切ったあとで、なにを思えばいいんだろう…とまるでJAM状態のまま、ひとり震え続けた。
まだ東京にいるわたしに、できることはない。過ぎゆく時間のなかで、余計なことばかりが頭をよぎる。北海道地震といい、今回の火災といい、2018年は様々なことが重なっている。もしやわたしのせいじゃないだろうか。わたしが蔵に行くなんて言ったばかりに、こんなことになったのだろうか。非現実的な思考にとらわれ、いつ日が暮れたのかわからないままバカみたいに泣き続けた。
そうだ、札幌の母に電話しよう――酒蔵に行きたいと言ったとき背中を押してくれた、夫婦で札幌の割烹料理店を営む尊敬する実母だ。
「手伝いに行ってきなさい。邪魔ならすぐに帰りなさい。天災の被災地にでもいくつもりで、身の回りのことはすべて自分でしなさい。向こうに着いたら、決して泣いてはいけない。泣きたいのはあなたではない。」
やはり母は偉い。すでに答えは決まっているのに、ウジウジしているわたしの背中を押した。緊迫した現場では、泣き言ひとつ言えないだろう。外部の人間であるわたしがいて、楽になる部分もあるかもしれない。夜、あらためて壺阪専務と電話で話し、「来てもらえると助かる」と了承を得たので、ほとんどパッキングが済んでいたスーツケースに、最後のヒートテックを詰めて、ふたをとじた。
その後、SNSを見続けていると、ニュースの「酒蔵全焼」という文字を見て、早とちりしたファンや流通関係者がネット上に「播州一献、今期の酒づくり絶望か」という内容をアップしていた。さらには、それがただの呟きなのに、それを見た者は「今期の酒づくりは絶望なんだ」「いや、蔵の存続も危うい様子だ」と勘違いしはじめていた。酒造設備は残り、酒づくりは続行できるというのに、このままでは、情報による2次被害で、酒蔵がさらなる危機に直面してしまう。
本当にできることはないのだろうか?いやいや、自分にしかできない仕事がそこにあることは明白だった。そうだ、泣いてたってなにも変わらない。北海道地震の時、まっ先に電話をくれた壺阪専務に恩返しをしよう。痺れるような使命感が全身を貫いた。
火事現場の正しい現状を整理して、Facebookで【第1報】として発信した。火事からの復旧作業という名の戦いは、ここから始まり、のちに「日本酒界の戦場カメラマン」と呼ばれるようになる(誰が言ったのか忘れたけど、紀州の蔵元だった気がする)。
<牛歩状態で申し訳ありませんが、つづく>