酒の香りとあなたの匂い【友美の日本酒コラム004】おとついからの二日酔い
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風が吹くと、夏の夜の湿った空気をすり抜けてあなたの匂いがする。前を歩くあなたから、そしてわたし自身から。地下にあるその日本酒屋は空調の関係で、入り口でやわらかい逆風が吹いていた。身体に染み付いたあなたの匂いが、わたしの匂いと混ざり合ってふわっと匂い立つ。
甘い匂いがする左手、ほのかにヤニ臭い右手。あなたが、
「ねぇね、これ。この酒、おなじ匂いがしない?」と自分の手を嗅ぎながら言い、わたしにも嗅がせた。お酒と嗅ぎ比べてはみたけど、あなたの手を嗅いだらミルクみたいに柔らかい大好きな匂いがしたから、ついにやけてしまった。
「全然わかんないよ〜」とおどけていたら、日本酒で濡れたあなたの唇が色っぽくて、ますますニヤニヤが止まらなくなって、それを見たあなたもつられて笑い、二人で意味もなく笑い続けた。酔いが心地良い。
「あー酔っ払った!」
「なんだかんだで、たくさん飲んだねぇ〜」
店を出たあと、人混みであなたはキスをした。驚いて見上げたわたしに、あなたはニヤリといたずらっ子のように挑発的な顔をした。飲みすぎて目尻が下がったあなたが愛おしい。こういう大胆なことをする日は普段と比べて余計に酔っている。一緒にいると楽しく可笑しくててつい飲みすぎる、そんな相手がいることがとても有り難い。
*
部屋に戻ってベッドに寝転んで、ぴったりと密着していた。わたしの上にあなたの脚がかけられ、腕で抱え込むようにギューっと寄せられた。まるでパズルみたいだ。どんな体勢をとってもゴツゴツして身体が合わない人もいるけど、あなたとわたしは元がひとつだったかのようにしっくりくる。小さい頃からたとえ親でも、人の胸の中で緊張して眠れないわたしが安心して熟睡できるあなたの胸。世界でここだけの許された場所だ。
そう、これは紛れもなく大好きなあなたの匂い。あなたの体温。あなたの匂いがする香水があったらいつも持ち歩くだろうな。またわたしにあなたの匂いが移ってしまうな、いっそ全部混ざり合ってもうごちゃまぜになって1つになってしまえばいいなと、まどろんだ頭でぼんやり思いながら、あなたの鼻先に顔を寄せた。近づいた唇から日本酒の香りが漂う。わたしの名を呼ぶために口を開けば、より濃厚に唾液とアルコールの匂いと吟醸香が混ざり、わたしの鼻腔に届く。わたしの匂いも今ごろ、あなたの鼻にまとわりつき脳をくすぐっている。ふき出す汗からも同様にお酒の香りがする。
ヒトは本能的に、自分に近い遺伝子を匂いで嗅ぎ分けるという。思春期に父親の匂いを嫌悪するのは、近い遺伝子を交えないための自然の摂理。だから匂いを嗅いで苦手だな、と思う相手は動物としての相性が良くないという。もしそうなら、こんなにも心地よく感じるあなたとわたしのルーツは、きっとずっと遠いところにある。だとしたら、わたしが日本酒や酒蔵内の香りを嗅いでうっとりするのもなにか本能的なものだろうか?
いや、すべてはお酒好きのあなたに惹かれたわたしの後付けの理由なのかもしれない。安心したいだけなのかもしれない…と考え直して、ようやく夢の入り口に戻ってきた。明日は早起きしなきゃならないけど、今夜はこのままあなたのお酒くさい寝息を嗅ぎながら眠りに落ちたい。隣でのん気に携帯電話の動画を観ているあなたはどう思っているんだろう。
「ねぇ、今夜…」
「あ。ねぇ、このあと…」
いつもこうだ。同じタイミングで、同じように同じことを考え、思いつき、感じ、同じことを言う。目を合わせたら思わず互いに微笑みが漏れ、そして口づけを交わした。じゃれ合って、このままふたり日本酒の香りに包まれながら朝を迎えるのだろう。
*
という妄想をしながらいま、わたしはひとり酒盃を傾けている。こんな風に若いふたりのすぐそばに日本酒があったなら酒匂…いや、最高だろうな、と。
昔からにおいフェチのわたしだけに関わらず、日本酒の愉しみのひとつはその香りにある。香りと味が符合するもの、意外性のあるもの…。料理と日本酒の相性は、同じ柑橘系の香り、干し草のような香り、華やかな酵母の香りと香草など、同調する香りという観点から合わせると成功することが多い。味もさることながら、香りも相乗効果を生むことがある。毎年おこなわれる酒蔵の腕試し―全国新酒鑑評会だってオフフレーバーがないことが良い酒の条件という。嗅覚がしっかりしていれば腐って害のあるものを食べる心配もない。それだけ香りから受け取ることのできるメッセージというのは大きいのだろう。人間って上手いことできている。だから「一緒にお酒を飲みたい人」という言葉の裏には、(柔軟剤や香水なんかは議論の余地もないが)その人の匂いっていうのも、重要なポイントなのかもしれないなあ。日本酒と料理と人の匂いのマリアージュ。そんなことを言っていると、誰も一緒に飲みに行ってくれなくなりそうである。