日本酒物語『吞めど 話せど 愛せども』〜博司と真奈美の場合
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- 日本酒は縁を繋ぐ。
それは時として恋人、夫婦、親子、同僚…様々なあいだを取り持つだろう。日本酒を軸として繰り広げる様々な人間模様を描いていくストーリー。
東京から車でたった3時間の場所に位置する、地元に戻った日。真奈美は、なぜだか無性に「私は負けたのだ」と感じた。
都心ではまだカーディガン1枚で済んでいたのに、山あいの街に訪れる朝晩の冷え込みはキツくて、後日届く引越し便にコートを入れたことを悔やんだのを強く覚えている。
知り合いのコネを使わず、ハローワークを利用して地元の小さな企業に就職した。
空き部屋だらけになっている実家にも帰らず、一人暮らしを選んだのは、自分の心を支えるためにできる限りの抵抗だったのかもしれない。
だから、たまに父・博司の顔を見に実家に足を運ぶ。
「嬉しい」とは決して言わないが、喜びを目元ににじませる父が不憫で、必ずお酒を持って一晩泊まるようにしている。東京での盛大な結婚式から数年。30歳をとうに過ぎてこの地に戻ってきた私に、できる親孝行はこのくらいだから。
- 「お母さん、また昇進したんだってさ」
「ふーん、そうか」 - 「お兄ちゃんようやく一科目獲れたらしいよ」
- 「あぁ、税理士か。働きながらだしなぁ。大変だな。ほらお前、これ煮えてるぞ」
味噌鍋を言葉少なにつつきながら、お互いの話題を避け、いない者の話を続ける2人がいた。
- 「そうそう。今日はこれにしてみたよ」
「お。純米大吟醸か。奮発してどうしたんだ?給料日前だろう」
「お父さん、自分の誕生日忘れちゃったの?(笑)」
「あぁ…、明日か」
大げさにやるほど虚しさもこみ上げる気がしたから、ケーキは用意しなかった。それならいっそ、といつも手に取らない日本酒を買ってきたのだ。酒飲みにとって、普段自分で買わない酒を飲めることはなにより嬉しいものだ。
食後、ゆっくりとした時間が流れる。真奈美は酒の封を開け、博司はテレビを消してアナログレコードに針を落とす。昭和歌謡も聞くが、今夜はルイ・アームストロングが気分のようだ。どこからか、美しく光輝く江戸切子のグラスを持ってきた。
- 「香りのある酒って奥の方に、たまに苦味を感じることがあるなぁ」
「香りが出やすい酵母の性質らしいわよ」
「嫌なものもあるが、この酒はそれで返ってバランスがとれてるな」
「そうかな?」
「そうとも」
- 「お父さん、59歳おめでとう。幸せ?」
今夜まではまだ58歳だ。と博司が片眉を上げて笑う。いつもは口数少ないが、酔うとほんの少しだけど饒舌になる。 - 「そりゃあ幸せさ。仕事も順調、結婚も一度はしたし、こうして顔を見せてくれる子どもまで授かった。酒を美味しく呑める程度に俺は健康だ。何が幸せかなんてわからんもんさ」
「そっかぁ。私はこれから、どうしようかな…」
What a wonderful worldという曲のサビが、耳に飛び込んでくる。
「なんて素晴らしい世界、か」
1968年ベトナム戦争に対するアイロニーということは、真奈美は知る余地もない。
図らずとも持ち合わせたほろ苦さを、何とかバランスさせて、必死に足元を見つめながら毎日を歩み続ける。
勝ちも負けもないのかもしれない、と49%まで磨かれた地元の酒を飲みながら、ふと真奈美は思う。
癒しとも慰めともない親子の時間は、これからも可能な限り重ねられていくのだろう。
博司と真奈美の場合<END>
※このストーリーはフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。