酒と鮨の千一夜~第十五夜・土佐高知の酒池鮨森の十五夜~
掲載
平成三十一年三月より令和元年七月まで十五回に渡り高知四国銀行へ経理研修に参加させていただいた。夜は高知の夜を美味い魚(鮨)と地酒を旧友、旧知の先輩、研修仲間と楽しんだ。高知は昭和六十三年から平成三年までの昭和の終わりから平成の初め四年間暮らした。何の因果か今回も平成から令和に変わる時に高知を桜の頃から梅雨明けまで楽しませていただいた。本来十五夜は旧暦の満月の夜のことを指すが、今回、十五回の訪問で十五夜とタイトルをつけさせていただいた。
桜の頃から梅雨明けまで、冬の寒グレから初夏の初鰹、梅雨の王者伊佐木、夏の宗田鰹の新子まで楽しんだ。日本酒は20種類以上、よく飲んだ(笑)
すべてを解説していきたいが、何年かかるかわからないので、個別にはゆっくりと。今回は日本酒、鮨、肴をそれぞれ九分割画像にて一気にご紹介したいと思います。
それでは土佐高知酒池鮨森の十五夜一気に行きます。
日本酒第一部
春から青葉の頃
①②③
④⑤⑥
⑦⑧⑨
①久佐・どくれ 寒グレ 利他食堂
②亀泉・CEL24 寒鯖、寒グレ、冥加 利他食堂
③土佐しらきく 寒鱸 利他食堂
④酔鯨 鯨 葉牡丹
⑤美丈夫 ふくよし
⑥酔鯨 のれそれ ふくよし⑦南・無濾過純米生中取り 初鰹塩たたき かもん亭
⑧黒尊 かもん亭
⑨松翁 潤目鰯バッテラ かもん亭
日本酒第二部
初夏から梅雨明け
①②③
④⑤⑥
⑦⑧⑨
①亀泉・貴賓 潤目鰯ばってら かもん亭
②南・無濾過純米吟醸中取り オオモンハタ かもん亭
③久礼・花河童 潤目鰯 須崎魚河岸 魚貴
④久礼・どくれ うつぼの炙り握り 須崎魚河岸 魚貴
⑤文佳人・夏純吟 どろめ軍艦、伊佐木炙り 須崎魚河岸 魚貴
⑥酔鯨・夏くじら 宗田鰹新子握り 須崎魚河岸 魚貴
⑦土佐鶴 生蛸握り 須崎魚河岸 魚貴
⑧文佳人 夏純吟うすにごり生 須崎魚河岸 魚貴
⑨番外 キリンクラッシックラガー 餃子 高知屋台松ちゃん
鮨第一章
桜の頃から初夏
①②③
④⑤⑥
⑦⑧⑨
①寒ぐれ 久礼
②寒鱸 土佐沖
③寒鯵 土佐沖
④寒鯖 土佐沖
⑤茗荷田舎寿司
⑥潤目鰯 宇佐
⑦うつぼ炙り 須崎
⑧うつぼ生 須崎
⑨どろめ 須崎
鮨第二章
春うらら
①②③
④⑤⑥
⑦⑧⑨
①金目鯛炙り 室戸
②潤目鰯 宇佐
③清水鯖 清水
④飯烏賊 宇佐
⑤太刀魚 須崎
⑥土佐巻 宇佐
⑦清水鯖ばってら 清水
⑧潤目鰯ばってら 宇佐
⑨焼鯖寿司 土佐沖
鮨第三章
初夏から梅雨明け
①②③
④⑤⑥
⑦⑧⑨
①鯨 南氷洋
②初鰹 生 久礼
③初鰹 たたき 久礼
④太刀魚 須崎
⑤伊佐木 須崎
⑥伊佐木炙り 須崎
⑦飛魚 須崎
⑧宗太鰹新子 須崎
⑨生蛸 須崎
おしまいのページで・・・
酒と鮨の千一夜も十五夜を迎えた。まだまだ先は長いが、十五と言う数字にこだわれば、フィフィティーン、そうラグビーを語らなければならない。寄稿中の今、10月7日は、ラグビーワールドカップ日本大会の真っ只中である。ちなみにドーハ世界陸上も本日まで開催されていた。
私事、今回、ラグビーワールドカップ日本開催と言うことでアイルランドスコットランド戦を観戦する機会に恵まれた。アイリッシュパブも含め(笑)観戦中のビールも含め(笑)最高の雰囲気を味わった。そう考えれば、オールブラックス(ニュージーランド)スプリングボクス(南アフリカ)の試合が日本で開催されたと思うと鳥肌が立つ。両国のラグビーでの戦いを思い起こすとき。1976年と言う年が思い出される。
2019年秋、ドーハでは世界陸上が開催されていた。中長距離を中心にアフリカ勢の活躍は際立っていた。そのアフリカ勢がボイコットした1976年のモントリオールオリンピックを思い出した。なぜ、アフリカ諸国はモントリオールオリンピックをボイコットしたのか?
では、ウイキペディアよりオールブラックススプリングボクスの項より抜粋する。
1948年以降、南アフリカ連邦/共和国内で国民党政権による人種隔離政策(アパルトヘイト)が推進されるようになり、これがラグビーにおけるオールブラックスとの対戦にも影響を及ぼす。オールブラックスは南アフリカ連邦/共和国への遠征の際、先住民族マオリの選手をチームから外していた。これに対してニュージーランド国内で批判が出るようになった。抗議運動は拡大していき、1973年には南アフリカ共和国への遠征が中止された。1976年には遠征が敢行されるが、これに反対していたアフリカ諸国が同年のモントリオールオリンピック出場をボイコットすることになった。
1981年にはスプリングボクスがニュージーランドへ遠征するが、ニュージーランド国民による抗議デモが警官隊との衝突に発展したり、両国の対戦中にスタジアム上空からセスナ機が障害物を投げ入れたり、と混乱が広がった。4年後の1985年にはオールブラックスによる南アフリカ共和国遠征が再び中止となったが、選手の大半が翌1986年に、協会に無断でニュージーランド・キャバリアーズというチームを結成して南アフリカ共和国で試合を行い、批判を浴びた。結局、オールブラックスとスプリングボクスとのテストマッチは、1981年以降はアパルトヘイトが撤廃されるまで行われなかった。
1980年のモスクワオリンピックはソ連のアフガン侵攻でアメリカを初め西側諸国のボイコットとなった。1976年はアパルトヘイトと言う政治的な背景もあるが、オールブラックスの南アフリカへの遠征への抗議によりアフリカ諸国のモントリオールオリンピックボイコットを呼んだ。それくらいオールブラックスとスプリングボクスのラグビーのテストマッチは特別なものなのだ。そこまで世界的反対を受けてもオールブラックスはスプリングボクスとラグビーしたかった。そんな試合を日本で見れる。できるものならば、決勝は日本アイルランドを夢見るが、再びオールブラックスと南アフリカが相まみえるのも最高に幸せな瞬間だろう。