神様とわたしたちとを結ぶ”サキ”【友美の日本酒コラム008】おとついからの二日酔い
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昨日まで夏休み、お盆休みで今日から出社だという人も多いのではないだろうか。お盆――もともとあった祖霊信仰と自然信仰をあわせた神道と仏教とが結びついた日本独特の行事である。2018年は迎え火が13日で送り火が16日。この間はご先祖様が“こちら側の世界”に帰ってきているそうだ。昔は、川や山におりて来ると言われていたが近ごろは亡くなった人だってフットワークが軽いらしい。友人宅でもこの期間、家で理由の説明がつかないような現象が起こったというので「家の中をうろうろと迷っているのかね~?」と話していた。
先日、東京都青梅で「澤乃井」という酒をつくる小澤酒造にお邪魔した。小澤順一郎社長が直々に酒蔵内を案内してくれた、だけでなく終わってから「澤乃井」を飲みながら酒にまつわるさまざまな話をしてくださった。江戸時代からの大きな流れで灘、伏見の酒が席巻していた東京に「東京の酒・澤乃井」という地位をつくり青梅から中心部に進出した先代、そしてそれを揺るぎないものにした順一郎社長。まるでお公家さんのような品の良いポーカーフェイスが崩れることはないが、酒の色んな時代を乗り越えてきた社長の話はさすがに面白く、裏側にある情熱が見え隠れする。その情熱に触発される形で、話の中に出てきた「信仰と酒」について考えてみた。
古来日本では自然を信仰の対象としてきた。その中でもとりわけ山はご神体=「神」そのものと見られることが多く、仏教が伝来してから今もなお、山は大切な意味を持っている。山の神を「サ神」といい、神様に関係するものには「サ」がつく。まだ文字が浸透する前の話だ。信仰の対象だった山が、富士山などと「サン」で呼ぶのはその名残だと言われている。実際に日本酒の名前を冠しているものだけでも、月山、丹沢山、雪彦山、鳥海山、鹿野山、関山、大平山、磐梯山…挙げればキリがない。そして「サクラ」は神霊が依り鎮まる(鞍)木であり、山と下との境界線を「サカイ(境)」 、そこに設けられた垣根が「サク(柵)」と呼ばれ鳥居を指したのだろうか。
農耕民族で、集落から外れると野垂れ死にしかねない日本はそもそも協調が求められたため、具体的な規律も、教えを口伝えする人のような形をした神様も必要なかったのである。では、いつ神様の存在が必要だったのかというと冠婚葬祭のとき。元服=成人の儀、結婚、葬式、祭りになると、普段は人気のない山頂を住処とする神様に降りてきていただいて、立ち会って認めてもらうのだ。しかし、ただで来てもらうには忍びない。そこでお供え物をするのだが、なかでも酒は特に重要な意味を持っていた。サキ(酒)は神様の気(気配)を感じるもの、サカナ(肴)は神様が食べるための菜で、それを神前に「ササゲル(捧げる)」。感謝の気持ちを込めてお供えをし、神様が飲んだあとの酒をその場の全員でいただくこと(直会)で儀式は成立したのだ。
神様とわたしたちとを繋いできたもののひとつが、日本酒である。そこには自然に感謝し、ご先祖に敬意を表してきた先人たちの想いも一緒に込められている。
わたしは日本酒業界の門戸を叩く前まで地理も歴史も文芸も無知といっていいほどで、知ったとしても点々とした豆知識レベルだった。そりゃあ今だって日々勉強なんだけど、「御神酒」が日本酒であること、お供え物をする風習や並べるものを見聞きしたことがある、という程度だった。それが日本酒という接点ができたことで一変した。酒ができる気候や水を知るためには地理を知らなければならない、知ればなぜその味わいなのかが理解できる。歴史を知れば目の前にいる地方出身のお客様や友人、蔵元と心の距離感が近くなる。文芸には地理や歴史が目いっぱい詰め込まれている。どれもが単独であるものではなく繋がっていて、知るほどに毎日の面白みは増していく。
長い歴史を越えて残ってきたものには、必ずしも理由か事情が存在していると思っている。「日本酒は日本の文化である」「守らなくては」なんて毎日考えながら酒を飲むのは煩わしいが、お盆を過ごし終えたこの機に少し振り返ってみるのはどうだろう。みんなで日本酒を囲んで故人を思い、山と空を仰ぎ、川や海に触れる。都会では見えなくなっていた大切ななにかが、本能的に思い出されるような気がしないだろうか。――そんなことを思い、御岳山(ミタケサン)、惣岳山(ソウガクサン)、麻生山(アソウサン)、多摩川の清流という大自然に囲まれた小澤酒造で聞いた順一郎社長の話を回想していると、突然ふわりと家のなかをさわやかな風が流れた。