日本酒物語『吞めど 話せど 愛せども』〜愛佳とママの場合
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- 日本酒は縁を繋ぐ。
それは時として恋人、夫婦、親子、同僚…様々なあいだを取り持つだろう。日本酒を軸として繰り広げる様々な人間模様を描いていくストーリー。
ここは東京。
都心も都心…にも関わらず、昼から酒を飲むことのできる、戦後のドヤを残したような呑み屋街にそのスナックはあった。
「ママ、どうしてこんな思いきったこと考えついたの?」
「あぁ、なんでスナックなのに禁煙にしたのかって?」
「うん、そう」
「だって日本酒の香りが消えちゃうじゃないの。それに洋子が喘息だったのよ。それも大きいかもしれないわね」
「前まで一緒にやってたママの妹さん?そもそもスナックで日本酒って珍しいよね〜。わたしは好きですけど」
「あんたねぇ?人と同じことやったって、全ッ然意味ないじゃない!(笑)」
ママは開店前、テーブルを拭きながら笑っている。華奢な身体に似合わず「ガハハ」と、いつも通り豪快な笑い声だ。
ここは女性のお客さんが多い。ママの人柄と、やはり禁煙という点が大きいのだろう。スナック通いする30〜40代の若い女性がいて、さらには「通いたいけど、どこに行っていいかわからなかった」というニーズが存在するということを、愛佳はここに来て初めて知った。
ママによると「みんな色々辛いことあんのよ!」ということで、常連のリエさんに言わせると「まぁ、スナックセラピーってとこだね」だった。
店のシステムは他とさほど変わらない。ただ飲み放題はなくて、キープボトルがウイスキーか日本酒かの違いだけ。あとはカラオケがあり、日本酒に合うお通しがあり、ママがいて、学生アルバイトの愛佳がいる。15席の小さな普通のスナックだ。
ある日珍しく、愛佳が無断遅刻して店の扉を開けると、ママとリエさんがギョッとして息をのんだ。
「あんた、どうしたのその…顔?」
「……」
「あのね。ちょっと、そこ座って待ってなさいね」
言われた通りに愛佳は、カウンター席のリエの隣にちょこんと座った。リエは何も言わず、横顔で温かく愛佳を見守っている。
「うちには乱暴者や慌てん坊は来ないから、消毒液なんかないのよ」と、普通酒の入った一升瓶とティッシュを抱えるママから手当てされた。切れた口の端に、普通酒がしみる。
「なんも言わなくていいから。今度言いたくなったら言いなさい。でも…」
「でも……?」愛佳は、震える声で聞き返す。とりあえず帰れって言われるかな。当たり前だよね、こんな状態じゃ営業妨害にも程がある。様々な想いが頭をよぎる。
「でもさ、何度勉強してもしても、男とお酒は失敗しちゃうのよね。好きなんだけど上手くいかないよ。あんただけじゃないわよ」
「そうねぇ」とリエが小さく息を吐いてから、笑った。
愛佳の溢れた涙は、止められずに途切れることなく流れ続けた。辛い気持ちは声にならずに、ただ息を殺しながら肩を揺らしてひたすら泣き続けた。
同級生でも友だちでも彼氏でもない。利害関係のない第三者と話すことが、なによりの癒しになる時があること。今夜、ここ以外駆け込む場所が思いつかなかった腫れた顔の愛佳は、今ならみんなの気持ちを理解することができた。
こんな時、普通ならお酒なんて勧めないんだろうけど、破天荒なママは愛佳のためにお燗をつけた。気持ちが高ぶった時には、あったかいものを摂りなさいということらしい。それは体温よりも熱い、少しフゥフゥして呑むお燗だった。
燗によって華やかな香りがさらにひらいた、私の田舎・石川の海沿いの酒。散々泣き明かした後の身体と心に、米の甘さが染みこんでいくのを感じていた。
愛佳とママの場合<END>
※このストーリーはフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。